八百長雑感

その立証は不能と思われていた大相撲における八百長の事実が白日のものとなったのは、もう何年前のことだっただろうか。相撲協会は、それまではその存在を一貫して否定し続けてきたが、図らずも、警視庁による野球賭博の捜査の過程で、押収された力士の携帯電話から八百長の打ち合わせなどを記したメールの記録が見つかったことにより、とうとう八百長が行われたことを公に認めざるを得なかったのである。それでも、あくまで八百長といったものはそれまでにはなかったとして問題を矮小化し、トカゲの尻尾を切るような形で組織を守り、未曾有の難局を何とか乗り切ったという次第である。この一大事を契機に、大相撲は、それまで連綿と受け継がれてきたものと思われる八百長という因習を厳に戒めているようである。もっとも、この大相撲という特異な文化に対して、必要以上に競技としての潔癖性を求めるのは野暮というものであり、むしろ、虚と実が混在している方が何かと面白いのではないかと言えば不謹慎だろうか。

ところで、この八百長という言葉がどうも気になる。明治の初期に八百屋の長兵衛(通称「八百長」)という人が、ある相撲の親方と碁を打つ際に、ご機嫌を取ろうと手加減をしていたことから、故意に敗れることを八百長と呼ぶようになったというのが定説のようである。そこで、ひとつ疑問に思うことがある。この八百屋の長兵衛さんが、八百長を行っていた以前のいにしえから、おおよそ勝負事において、故意に敗れるというようなことは幾度となく行われてきたはずである。したがって、八百長という言葉が生まれる以前から、このような行為を指す名詞が存在してしかるべきと思うが、知る限りでは見当たらない。故意に敗れるという行為は秘すべきことであるが故に、敢えて明示的に記号化することを無意識に避けてきたということなのだろうか。

ともあれ、八百長という俗語、あるいは隠語だけが存在し、正規の名称がないというのは不自然であり、新たに適切な言葉を設けるべきではないかと思われるかも知れない。しかし、どうだろう。この八百長という言葉は、今日では、その原義である対戦者の一方が故意に敗退行為を行うということから転じて、互いに予め勝敗を示し合わせて行われる、あるいは、暗黙の相互了解のもとに行われる勝負といった意味でも用いられる。さらには、その意味範囲を拡げ、勝負事に限らず一般に、当事者が事前に示し合わせたうえで、あるいは忖度のもとに事を運ぶということまでも包括するようである。よって、今となっては、このように広義化し多義性を帯びた八百長という言葉に代わるものは考えにくいのではないだろうか。八百長なる事象は、まさに八百長という言葉で言い表わすほかはないのかもしれない。