某ヨーガ教師は、空中浮揚、つまり、結跏趺坐の体勢で身体が空中に浮いてそのままの状態を保つことができるという。とはいえ、このパフォーマンスが可能なのは、写真の撮影を行うある側近以外は立ち会うことのできない、言わば密室の場に限られるとのことである。当初は、公開の場などにおいて、この空中浮揚を演じようとしたことが何度かあったらしい。だが、いずれの場合も、奇跡を起こすことはできなかったということは言うまでもない。その後は、見ている人のネガティブな想念が浮揚の妨げになるといったことを理由に、人前で実演を試みるようなことはなくなったという次第である。
実演はともかく、空中に浮揚しているところを撮影したとする写真が公開されている。まず、床から 30 cm 程度の高さのところで結跏趺坐の体勢をとっている一コマの写真と共に、浮揚の場面を連写したものであるというネガフィルムをベタ焼きした写真がある。結跏趺坐の体勢で同じような高さの状態にある写真が何コマか並んでいることから、それはまさに、空中に留まっているという事実を明らかにするものであると力説するが、空中浮揚というものが事実であることを連写によって立証しようとするならば、床から離れる瞬間から再び床に戻るまでの全体の様子を連写するはずであり、同じ高さの状態にある場面だけを撮影しているというのは不自然である。結跏趺坐のままでジャンプし、その一定の高さの瞬間を撮影するということを繰り返すことによって連続性を表現することも可能である以上、同じ高さの写真が並んでいるからといって空中に留まっているということの証左にはなり得ない。さらには、1m を超える空中浮揚であるとする写真写真がある。結跏趺坐のままジャンプしたものであれば、数10 cm ならともかく、1m もの高さに達することは考え難いことから、それは、単なるジャンプであるという批判を退けることはできるかもしれない。だが、そもそも、床から離れる場面を見せない以上、どのようにして 1m 程度の高さに達したのか、その様子は不明である。つまり、結跏趺坐の体勢で座った状態で床を離れたものかどうかはわからない。下肢の各関節部分が極度に柔軟で、手を使わないでも難なく脚が組めるなら、それまでのものとは異なるトリッキーな芸当も考えられる。何にせよ、1m という高さを誇ったところで、浮揚しているということにはなり得ない。
それでは、映像についてはどうだろうか。デジタルのビデオカメラを用いて浮揚している場面を撮影しようとしても、映像にいわゆる砂嵐などが生じて何も映らなくなるという。ならば、フィルム式のカメラでは問題なく撮影ができるのであるから、例えば、アナログの 8ミリフィルムカメラなどを用いて撮影すればよいはずである。にもかかわらず、「空中浮揚が映像として見えるようになるには人類全体の意識が変わらなければならない」とのことである。これほどの欺瞞も詭弁も他にはないだろう。
結局のところ、空中に浮くことができると主張するものの、実際に演じて見せることも、映像によって見せることもできず、ただそれらしき写真を誇示するだけというのが実状ということになる。つまり、その実態が、単なるジャンプであれ、トリッキーな芸当であれ、あるいは、何やらヨーガの技法によって身体が跳ね上がるというような現象であれ、そのまま空中に留まるものでなければ、それを空中浮揚として示し得るツールは、それらしく見える瞬間を捉えた写真のみというわけである。もちろん、そのような写真によって、空中に浮くことができるとの主張が裏付けられるはずもないことは自明である。この限りにおいて、空中浮揚なるもの、それは、欺瞞と詭弁をもって語られる虚構に他ならない。