空中浮揚というファンタジー

空想傾性(Fantasy Proneness)と呼ばれる、非常にリアルで鮮明なイメージを想起したり、空想の世界に深く没入したりする傾向を指す心理特性がある。また、変性意識状態と呼ばれる、知覚・思考・感情・記憶などの心理的機能に質的な変化が生じるような、通常の覚醒時とは異なる心の状態がある。瞑想、催眠、薬物などによって引き起こされる意識変容などはこの変性意識状態の典型的なものである。空想傾性が高い人ほど、日常的に変性意識状態に入りやすく、その体験も深いとされる。そして、この変性意識の深化によって、潜在能力の発現がもたらされるということが起こり得る。あるいはまた、妄想的世界観が仮想現実化され、その結果、幻想を現実として確信的に認識することもあり得るという。

例えば、ヨーガや瞑想といった身体技法の熟達した実践者などが、変性意識下において、通常の覚醒状態とは異なる神経活動や心理状態が生じ、心拍数や血圧、体温などをコントロールしたり、相手の思考を察知したりするといった特異とも言える心身制御能力や知覚能力などを発揮することはあり得る事象である。これらは人間という生物に本来備わっているが、社会生活を送る上ではむしろ支障になるため封印しているポテンシャルの極限までの解放と言えよう。しかし、人間が空中に浮いて静止することができるといった類いの、物理法則に反する事象となると、それは論外である。変性意識下において、特定の技法によってもたらされる生理的・神経的な不随意運動として身体が跳ね上がる現象は生じ得るが、もちろん、それは浮揚と呼べるものではない。それでも、跳ね上がるだけにも拘わらず、深い変性意識がもたらす浮揚感によって、空中に浮揚したというリアルなイメージが脳内に生成されるのである。さらに、ここに空想傾性が加わると、この身体が跳ね上がるという不随意運動が、神秘の力によって重力から解き放たれたという超越的な物語に昇華するというわけである。

このような空中に浮くことができると主張する者の変性意識による浮揚体験がいかに鮮烈であり、その主観的確信がいかに強固であろうとも、言うまでもなく、空中浮揚なるパフォーマンスが公開の場で成功した試しはない。それでも、観ている人たちのネガティブな意識が浮揚という現象を阻害するという防衛的レトリックによって、実演できないのは、観ている人のせいであるということで合理化される。観察者が障害になるという主張の下では、公開も検証もあり得ず、空中に浮くことができるという主観的信念は守られ続けるのである。この防衛的レトリックを用いているということは、すなわち、当人は客観的な事実が何たるものかを自覚しているということである。だが、その当人にとっての真実とは、客観的な事実ではなく、主観的・体験的な事実であり、そのため、客観的事実を否定するためのレトリックを弄することに罪悪感を持たず、むしろ、それを崇高な目的のための方便として正当化しているものと思われる。

このように確信的に空中浮揚の達成者を自認する限り、当人は自己概念が肥大化し自らを高次の存在とみなし、覚醒者になりきっているものと窺える。こうした、言わば疑似覚醒者は、非日常的な物語によって、超越的イマジネーションの世界に傾斜する人たちを惹きつける。この疑似覚醒者の信奉者となってしまうのはオカルトマニアだけではない。論理的で批判的精神を有するはずの知識人までもが、空中浮揚に対して肯定的な立場をとるということも見受けられる。彼らは、この疑似覚醒者の語る超自然的物語を、既存の科学で説明できない高次のパラダイムが存在する可能性を示すものと解釈する。あるいは、科学主義・合理主義への批判として敢えて非科学側に立ち、合理主義が切り捨てたものを体現する存在としてこの疑似覚醒者を評価する。何であれ、権威ある知識人がこの疑似覚醒者への支持を明らかにすることによって、その影響はいともたやすく一般社会へ波及する。物理的には不可能な事象が客観的事実として語られるとき、本来なら一蹴されるべき欺瞞に不当な価値を与え、誤った認識を社会に蔓延させることになる。空中浮揚の類いの非現実性に対する人々の健全な懐疑や批判的思考を麻痺させ、現実検討能力を歪めてしまうという事態は軽視できるものではない。

こうした空想的疑似覚醒者の主観的虚構に惑わされるのは愚かしい。彼らの語るファンタジーに惹かれたときになすべきは、決して幻想に耽溺することなく、地に足をつけて現実的な思考に徹することである。危うい物語に呑み込まれてしまわまないよう、現実の世界に知性の錨を下ろすことである。神秘的な物語をエンターティンメントとして楽しむ遊び心を持ちつつも、物理的な現実を守るための冷徹な知性を持ち続けたいものである。

最後に、懐疑主義者であり、超能力の類いの欺瞞を暴く活動で知られる、故ジェームズ・ランディの言葉を取り上げたい。ランディは、「開かれた心を持つことは大切だが、脳みそがこぼれ落ちるほど開いてはいけない」という表現で、オープンマインドであることの重要性と、無批判に信じることの危険性を訴える。この言葉は、懐疑主義の立場から、批判的思考と証拠に基づく判断の重要性を端的に示すものと言える。それは、日本を代表するような知識人でさえも物理的にありえない超自然的能力を妄信してしまうといった、知性の危機とも言うべき状況にあって、危うい物語に囚われることなく、自らの正気を守り抜くためのまさに警句に他ならない。

空中浮揚なるもの

あるヨーガの指導者は、空中浮揚、つまり、結跏趺坐の体勢で身体が空中に浮いてそのままの状態を保つことができるという。もちろん物理学の法則からすれば論外であろうが、こうした話を信じているオカルティズムに親和的な人たちも決して少なくはないようである。また、一部の著名な知識人も肯定的な立場を取っているということは特筆される。そこで、この空中浮揚なるものについて少々思うところを述べてみたい。

見ている人たちの否定的な想念が浮揚の妨げになるということを理由に、実際に公の場でパフォーマンを披露することはないようだが、密室において空中に浮揚しているところを撮影したとする写真が公開されている。まず、床から 30 cm 程度の高さの位置で結跏趺坐の体勢をとっているものである。何やらヨーガの技法によって、空中に浮いてそのまま留まっているのだという。それとともに、浮揚の場面をモータードライブの機能を用いて連写したものであるというネガフィルムをベタ焼きした8コマの写真がある。結跏趺坐の体勢で同じような高さの状態にある写真が並んでいることから、これはまさに、空中に留まっているということを明らかにするものであると主張するが、結跏趺坐のまま下半身の力を利用してジャンプし、その一定の高さの瞬間を撮影するということを繰り返すことによって連続性を表現することも可能である以上、同じ高さの写真が並んでいるからといって空中に留まっているということの証左にはなり得ないだろう。それに、この空中浮揚が事実であることを連写によって立証しようとするならば、床から離れた瞬間から再び床に戻るまでの様子を連写し続けたものを示すはずではないだろうか。また、さらには1m を超える空中浮揚であるとする写真がある。見る限り、それまでのものとは異なる方法によるものと思われるが、何にせよ、1m という高さを誇ったところで、空中に浮揚しているということにはなるはずもない。なお、この1m のバージョンでは、肝心の連写したとする写真は示されていないようである。

それでは、映像についてはどうだろうか。デジタルのビデオカメラを用いて浮揚している場面を撮影しようとしても、映像にいわゆる砂嵐などが生じて何も映らなくなるという。ならば、フィルム式のカメラでは問題なく撮影ができるのであるから、アナログの 8ミリフィルムカメラなどを用いて撮影すればよいはずだが、やはり映像は示されることはない。「空中浮揚が映像として見えるようになるには人類全体の意識が変わらなければならない」とのことであるが、詭弁としか思えない。 

結局のところ、変性意識状態における主観的経験といったものではなく、あくまで客観的な事実として空中に浮いたままでいることができると公言しているものの、実際に演じて見せることも、映像によって見せることもできず、それらしきイメージ写真を誇示するだけというのが実状なのである。つまり、その実態が、単なるジャンプやトリッキーな芸当であればもちろんのこと、たとえ、ヨーガの技法によって引き起こされる生理的な不随意運動として身体が跳ね上がるというような現象であるとしても、空中に留まるものでない限り、それを空中浮揚として表現する手段は、それらしく見える瞬間を捉えた写真のみというわけである。

なんら実証を示せ得ず、検証にも耐え得ないままに、空中浮揚なるものを売りにすることは欺瞞であり、方便として正当化されるものとは思えない。言わばトリックスターが、社会に対して少なからず影響力を持つ、権威ある著名な知識人によって無批判に支持され、そして、このような空中浮揚の類に対する肯定的言説が一般に浸透してしまうということは、果たして、いかがなものだろうか。

電車にて

電車の中での出来事である。席に座っていると、目の前に立っている若い女性のお腹が膨らんでいることに気づく。そこで、すかさず、「座りますか」と声をかけた。その女性は、年配の人から席を勧められるとは思いもよらぬことだったのだろうか、一瞬、やや戸惑いながらも、「いえ、大丈夫ですよ」と明るい表情で答えてくれた。笑顔が印象的である。これから何かと大変であろうが、ぜひ元気な赤ちゃんが生まれるようにと願わずにはいられない。

その数日後である。その日は、電車に空いた席はなく、仕方なく立ったままでいると、アジア系外国人と思しき若者のグループのなかの一人が、席を立って近づき、その席を指さしながら席に座るよう勧めてくれたのである。とは言え、座る気にはなれず、思わぬ申し出に対して、反射的に「No, thank you.」と応えるのみであった。せっかくの好意に対して、きちんと感謝の意を示せなかったことが悔やまれる。思えば、電車の中で人から席を勧められるのは、これが初めてのことである。なんとも複雑な気分である。実年齢よりも若く見えることが密かな自慢だったのだが。ともあれ、これからも、人に席を譲ることはあっても、席を譲ってもらうつもりは断じてない。さて、今度は何と言って断ろうか。

極秘のおとぎ話

GHQが占領下の日本で接収した莫大な財産などを基に、密かに運用されてきたとされるM資金。この類の変種と思しき話が、今もなお、巷間まことしやかに流布されているようである。

過日、さる知人から、実におかしな話を聞かされた。政府から委託を受けて極秘の基金を管理しているという人物に会い、概ね次のような説明を受けたそうである。この基金は、基幹産業振興を目的としており、財政法に基づき、譲与を受けることを希望する一部上場企業の代表者に対して、一定の条件を満たせば資本金の10倍の資金が無償提供される。また、その企業の代表者を基金の管理者に紹介した一般の協力者にもその資金の3パーセントが謝礼金として支払われる。そして、これはM資金詐欺などとは異なり、企業側が手数料や準備金などを要求されることは一切ない、とのこと。因みに、あのKDDIの創業者である某氏もこの資金の恩恵に与った一人だという。

このような話は、もちろん、信じるに足るものではないことは言うまでもない。言下に戯言と断じるのが当然だろう。だが、彼は、あろうことか、微塵も疑うことなく真に受けてしまい、一部上場企業の代表者に接触を図るべく関係者へのアプローチを始めたと言うのである。そして、後日の話では、新たに、譲与される資金が何と資本金の100倍に引き上げられ、それに伴い紹介謝礼金も同様に増額されるようになったとのことである。ここまでくれば、さすがに疑念を抱いてもいいはずだが、なおも弄ばれていることに気づくことはない。それどころか、インセンティブが強化されたことにより、モチベーションはさらに高まり、関係者へのアプローチに拍車が掛かかることとなる。しかし、方々の伝手を頼って奔走するものの、まともには取り合ってもらえず、一笑に付されるのが落ちである。そうした周囲との摩擦を重ねるなかで、おそらく徐々に確信は揺らぎ、改めて事の真偽を問わざるを得なくなったであろうことは想像に難くない。その後の経緯についてはあまり語ろうとはしなかったが、何とか目を覚ましたようである。                            

ともあれ、これで一件落着としたいところだが、そうはいかない。実を言うと、彼は、今まで何度となく繰り返し様々な悪質商法や詐欺の類に騙されてきたのである。病的なほどにナイーブなのだ。いずれまた、誰かにたぶらかされ、懲りることなく、あらぬ夢を見るに違いない。

スマホ ネグレクトの光景

近くの公園での運動は、ここのところ、ほぼ日課と言ってよい。その日も、いつものように身体を動かしていた。そばにあるベンチには、3~4歳くらいの男の子とその母親が座っている。男の子は、母親がスマホを見ているため構ってもらえず、仕方なさそうに一人で遊び出す。そうしているうちに、男の子は、母親の代わりを求めてか、この見知らぬおじさんにあれこれと話しかけてきたのである。子供とのコミュニケーションは嫌いではない。とはいえ、ヘタに他人が子供と話をすれば、周囲から不審者と思われかねないご時世である。ためらいを覚えつつも、運動を続けながら、男の子の相手を務めたという次第である。一方、母親は、ずっとスマホに夢中で、わが子のことを気にかけるそぶりもない。その様子からして、おそらく、普段もこのようにスマホに没入し、子供へのケアを怠っているのではと思えてならない。親のスマホ依存によるネグレクトが、子供に深刻な影響を及ぼすということについては、ここで指摘するまでもないだろう。親としての自覚が問われる。

ほどなく、ルーティンの運動を終えたところで、男の子に手を振りその場を離れた。気になって振り返ると、男の子は、話し相手がいなくなるのを惜しんでか、こちらをじっと見ている。傍らの母親は、なおもスマホから目を離さないままである。なんとも切ない。

八百長雑感

その立証は不能と思われていた大相撲における八百長の事実が白日のものとなって久しい。相撲協会は、それまではその存在を一貫して否定し続けてきたが、図らずも、警視庁による野球賭博の捜査の過程で、押収された力士の携帯電話から八百長の打ち合わせなどを記したメールの記録が見つかったことにより、とうとう八百長が行われたことを公に認めざるを得なかったのである。それでも、あくまで八百長といったものはそれまでにはなかったとして問題を矮小化し、トカゲの尻尾を切るような形で組織を守り、未曾有の難局を何とか乗り切ったという次第である。この一大事を契機に、大相撲は、それまで連綿と受け継がれてきたものと思われる八百長という因習を厳に戒めているようである。もっとも、この大相撲という特異な文化に対して、必要以上に競技としての潔癖性を求めるのは野暮というものであり、むしろ、虚と実が混在している方が何かと面白いのではないかと言えば不謹慎だろうか。

ところで、この八百長という言葉がどうも気になる。明治の初期に八百屋の長兵衛(通称「八百長」)という人が、ある相撲の親方と碁を打つ際に、ご機嫌を取ろうと手加減をしていたことから、故意に敗れることを八百長と呼ぶようになったというのが定説のようである。そこで、ひとつ疑問に思うことがある。この八百屋の長兵衛さんが八百長を行っていたその以前にも、おおよそ勝負事において、いにしえからずっと、故意に負けるというようなことは幾度となく行われてきたはずである。したがって、八百長という言葉が生まれる前から、このような行為を指し示す名称が存在してしかるべきと思うが、知る限りでは見当たらない。故意に負けるという行為は秘すべきことであるが故に、敢えて明示的に記号化することを無意識に避けてきたということなのだろうか。

ともあれ、八百長という俗語、あるいは隠語だけが存在し、正規の名称がないというのは不自然であり、新たに適切な言葉を設けるべきではないかと思われるかも知れない。しかし、どうだろう。この八百長という言葉は、今日では、その原義である対戦者の一方が故意に敗退行為を行うということから転じて、互いに予め勝敗を示し合わせて行われる、あるいは、暗黙の相互了解のもとに行われる勝負といった意味でも用いられる。さらには、その意味範囲を拡げ、勝負事に限らず一般に、当事者が事前に示し合わせたうえで、あるいは忖度のもとに事を運ぶということまでも包括するようである。よって、今となっては、このように広義化し多義性を帯びた八百長という言葉に代わるものは考えにくいのではないだろうか。八百長なる事象は、まさに八百長という言葉で言い表わすほかはないのかもしれない。

寂しきパフォーマンス 

ある郊外の路上での出来事である。歩道を進んでいると、年の頃は50代と思しき女性が横たわっていることに気付く。具合が悪いに違いないと思い、声をかけてみる。意識ははっきりとしているように見えるが、何の応答もない。そこで救急車を呼ぼうか尋ねてみたところ、首を横に振って拒否の意思を示す。対応しあぐねていると、やにわに自ら上体を起こし、なんと息子の嫁への不満を一気に語り出したのだ。これには閉口するほかなく、その場から離れようとしたところ、「声をかけてくれてありがとう」とのお礼の一言という次第である。

ミュンヒハウゼン症候群と呼ばれる精神疾患がある。優しく世話をしてもらいたい、構ってもらいたいという精神的要求から病人を演ずる症状のことである。彼女のケースがこの疾患に該当するかどうかを判断する立場にはないが、その問題行動は嫁姑問題に起因するストレスから生じたものであり、家庭における疎外感を埋めるために対人接触を求めたのだろうということは容易に想像される。家族や周囲の人たちも彼女の異変には気づいているものと思われる。深刻な事態にならないうちにケアして欲しいものだ。その後は彼女を見かけることはないが、今もどこかで寂しきパフォーマンスを演じているのだろうか。