空中浮揚なるものについては、実際に身体が空中に浮くという客観的な現象ではなく、浮遊感や自己身体感覚の変化として生じる主観的な現象として理解することができる。例えば、ヨーガにおいては、結跏趺坐の姿勢で、呼吸法、意識の集中、そして特定の技法を実践することによって、神経系や生理系などの変化に伴い、身体が一瞬跳ね上がるような不随意運動が起こることがある。同時に、身体感覚や時間感覚の変化など、変性意識状態と呼ばれる主観的変容が生じることがある。つまり、自分の意志とは関りなく身体が跳ね上がるという現象が起こり、その一瞬の運動にもかかわらず、身体の位置や時間の経過の知覚が変化することで、空中に浮揚したかのように主観的に認識されるということも考えられるのである。そしてさらに、空想傾性、つまり、空想世界へ没入する傾向的特性によって、宗教的な意味付けがなされれば、ただ身体が跳ね上がるだけの現象が、神秘の力で重力から解き放たれたといった超越的な物語に昇華するというわけである。
こうした主観的・内面的体験を、まさに人智を超える能力としての空中浮揚なる現象であると確信する者は、自らを言わば「覚醒者」といった存在とみなしているように思える。この類いの「覚醒者」は、その非日常的な世界観によって、超越的な何かを希求する人たちを惹きつける。この「覚醒者」の信奉者となってしまうのは特別なオカルトマニアだけではない。論理的で批判的精神を有するはずの知識人までもが、空中浮揚なるものに対して肯定的な立場をとるということも見受けられる。このような知識人は、この「覚醒者」を近代合理主義の陰に隠されてきた身体的可能性を体現する存在として評価する。あるいは、この「覚醒者」の語る超自然的な物語を、既存の科学では説明できない高次のパラダイムの存在の可能性を示すものと解釈する。何にせよ、著名な知的権威が、空中に浮くことができると主張する者への支持を明らかにし、客観的には確認されていない現象を真実として語ることで、人々の健全な懐疑心や批判的思考が鈍化し、現実認識能力が歪んでしまうような事態になれば、それは決して軽視できることではない。
超常的現象の類いに惑わされるのは愚かしい。その特異な魅力に惹かれたときになすべきは、決してそこにある幻想性や非日常性に耽溺することなく、地に足をつけて現実的な思考に徹することである。妖しき物語に呑み込まれてしまわないよう、現実の世界に知性の錨を下ろすことである。幻想の産物をエンターテインメントとして楽しむ遊び心を持ちつつも、物理的な現実を直視する冷徹な知性は常に持ち続けたいものである。
