空中浮揚なるもの(2)

空中浮揚なるものについては、実際に身体が空中に浮くという客観的な現象ではなく、浮遊感や自己身体感覚の変化として生じる主観的な現象として理解することができる。例えば、ヨーガにおいては、結跏趺坐の姿勢で、呼吸法、意識の集中、そして特定の技法を実践することによって、神経系や生理系などの変化に伴い、身体が一瞬跳ね上がるような不随意運動が起こることがある。同時に、身体感覚や時間感覚の変化など、変性意識状態と呼ばれる主観的変容が生じることがある。つまり、自分の意志とは関りなく身体が跳ね上がるという現象が起こり、その一瞬の運動にもかかわらず、身体の位置や時間の経過の知覚が変化することで、空中に浮揚したかのように主観的に認識されるということも考えられるのである。そしてさらに、空想傾性、つまり、空想世界へ没入する傾向的特性によって、宗教的な意味付けがなされれば、ただ身体が跳ね上がるだけの現象が、神秘の力で重力から解き放たれたといった超越的な物語に昇華するというわけである。

こうした主観的・内面的体験を、まさに人智を超える能力としての空中浮揚なる現象であると確信する者は、自らを言わば「覚醒者」といった存在とみなしているように思える。この類いの「覚醒者」は、その非日常的な世界観によって、超越的な何かを希求する人たちを惹きつける。この「覚醒者」の信奉者となってしまうのは特別なオカルトマニアだけではない。論理的で批判的精神を有するはずの知識人までもが、空中浮揚なるものに対して肯定的な立場をとるということも見受けられる。このような知識人は、この「覚醒者」を近代合理主義の陰に隠されてきた身体的可能性を体現する存在として評価する。あるいは、この「覚醒者」の語る超自然的な物語を、既存の科学では説明できない高次のパラダイムの存在の可能性を示すものと解釈する。何にせよ、著名な知的権威が、空中に浮くことができると主張する者への支持を明らかにし、客観的には確認されていない現象を真実として語ることで、人々の健全な懐疑心や批判的思考が鈍化し、現実認識能力が歪んでしまうような事態になれば、それは決して軽視できることではない。

超常的現象の類いに惑わされるのは愚かしい。その特異な魅力に惹かれたときになすべきは、決してそこにある幻想性や非日常性に耽溺することなく、地に足をつけて現実的な思考に徹することである。妖しき物語に呑み込まれてしまわないよう、現実の世界に知性の錨を下ろすことである。幻想の産物をエンターテインメントとして楽しむ遊び心を持ちつつも、物理的な現実を直視する冷徹な知性は常に持ち続けたいものである。

 

 

空中浮揚なるもの(1)

あるヨーガの指導者は、空中浮揚、つまり、結跏趺坐の姿勢で身体が空中に浮いてそのままの状態を保つことができるという。もちろん、それは物理法則に照らせば非現実的であり、実証的な裏付けはない。にもかかわらず、こうした話を信じているオカルティズムに親和的な人たちも決して少なくはないようである。また、一部の著名な知識人も肯定的な立場をとっているということは特筆される。そこで、この空中浮揚なるものについて少々思うところを述べてみたい。

見ている人たちの否定的な想念が浮揚の妨げになるということを理由に、実際に公の場でパフォーマンを披露することはないようだが、特定の関係者によって撮影された、空中に浮揚しているところとされる写真が公開されている。まず、床から 30 cm 程度の高さの位置で結跏趺坐の姿勢をとっているものである。何やら特殊な技法によって、空中に浮いてそのまま留まっているのだという。それとともに、浮揚の場面をモータードライブの機能を用いて連写したものであるとするネガフィルムをベタ焼きした8コマの写真がある。結跏趺坐の体勢で同じような高さの状態にある写真が並んでいることから、これはまさに、空中に留まっているということを明らかにするものであると強調するが、結跏趺坐のまま下半身の力を利用してジャンプし、その一定の高さの瞬間を撮影するということを繰り返すことによって連続性を表現することも可能であり、同じ高さの写真が並んでいるからといって空中に留まっているということの証左にはなり得ない。それに、この空中浮揚が事実であることを連続写真によって立証しようとするならば、床から離れる瞬間から再び床に戻るまでの全体を連写し続けたものを示すはずではないだろうか。さらには1m を超える空中浮揚であるとする写真があるが、見る限り、それまでのものとは異なる方法によるものと窺える。1m の高さまで上昇する様子が示されていない以上、それが結跏趺坐の状態のまま行われたものかは不明であり、トリッキーな芸当の可能性は否定できない。何にせよ、その高さを誇ったところで、空中に浮揚しているということにはなるはずもない。  

それでは、映像についてはどうだろうか。デジタルのビデオカメラを用いて浮揚している場面を撮影しようとしても、映像にいわゆる砂嵐などが生じて何も映らなくなるという。ならば、フィルム式のカメラでは問題なく撮影ができるのであるから、アナログの 8ミリフィルムカメラなどを用いて撮影すればよいはずだが、やはり映像は示されることはない。「空中浮揚が映像として見えるようになるには人類全体の意識が変わらなければならない」とのことであるが、まさに詭弁としか言いようがないだろう。

結局のところ、空中に浮揚することができると主張しているものの、実際に演じて見せることも、映像によって見せることもできず、それらしきイメージ写真を誇示するだけというのが実状なのである。つまり、その実態が、単なるジャンプやトリッキーな芸当であればもちろんのこと、たとえ、ヨーガの技法などによって引き起こされる不随意運動として身体が跳ね上がるというような現象であっても、空中に留まるものでない限り、それを空中浮揚として表現する手段は、それらしく見える瞬間を捉えた写真のみというわけである。

なんら客観的な立証ができず、検証にも耐えないままに、空中浮揚なるものを売りにすることは欺瞞的であり、方便として許容されるものとは思えない。言わばトリックスターが、社会に対して少なからず影響力を持つ、権威ある著名な知識人によって無批判に支持され、そして、このような空中浮揚の類いに対する肯定的言説が一般に浸透してしまうということは、果たして、いかがなものだろうか。

 
 
 
 
 

電車にて

電車の中での出来事である。席に座っていると、目の前に立っている若い女性のお腹が膨らんでいることに気づく。そこで、すかさず「座りますか」と声をかけた。その女性は、年配の人から席を勧められるとは思いもよらぬことだったのだろうか、一瞬、やや戸惑いながらも、「いえ、大丈夫ですよ」と笑顔で答えてくれた。これから何かと大変であろうが、ぜひ元気な赤ちゃんが生まれるようにと願わずにはいられない。

その数日後である。その日は、電車に空いた席はなく立ったままでいると、アジア系外国人と思しき若者のグループのなかの一人が、席を立って近づき、その席を指差して席に座るよう勧めてくれたのである。とは言え、座る気にはなれず、思わぬ申し出に対して、反射的に「No, thank you.」と応えるのみであった。せっかくの好意に対して、きちんと感謝の意を示せなかったことが悔やまれる。思えば、電車の中で人から席を勧められたのは、これが初めてのことである。実年齢よりも若く見えることが密かな自慢だったのだが、なんとも複雑な気分である。これからも、人に席を譲ることはあっても、席を譲ってもらうつもりは断じてない。さて、今度は何と言って断ろうか。

ある公園遊具のこと

街の中では、いったいこれは何なのだろうと思うモノを目にすることがある。上の写真は、とある公園にある一風変わった作りのシーソーである。支点部となる丸太の上に、腰を掛けるためのシーソー板が載っている格好なのだが、ご覧の通り、この丸太は必要以上に長く、その一端には小さなパーツが取り付けられている。なぜ丸太はこのように長いのか、そして、このパーツが何のために付いているのか一見しただけでは分からない。そばで遊んでいる子供たちに尋ねてみたが、誰も知らないと言う。そこで、あれこれ考えを巡らした末、次のような結論に達する。シーソー板は主翼で、丸太は胴体、そして小さなパーツは水平尾翼と垂直尾翼である。つまり、このシーソーは飛行機を模したものとみられる。

こうした乗り物などをモチーフにした遊具というものは、一般に子どもの興味を喚起するはずであるが、このシーソーの場合に限っては、その形状が過度に単純化されたせいか何を表しているのか分かりにくいことに加えて、あまりにも外観が簡素であることから、子どもが特に興味を持つとは思えない。

にもかかわらず、なぜ、このようなシーソーを公園に敢えて設置したのか疑問である。例えば、本来はこの丸太に2つのシーソー板を並べて取り付ける2連式の仕様であったが、安全性の観点などから製作の途中で単式への変更を余儀なくされ、苦肉の策として飛行機の形に仕立てたというような特段の事情でもなければ、設置に至った理由の説明はつかないだろう。

ともあれ、この飛行機らしきモノは、シーソーとして機能してはいるものの、子どもがその遊具の意味を自然に理解し、興味を掻き立てられるような作りにはなっていない。つまり、子どもの直感に働きかけ、好奇心を刺激するという意図が見えない。公園遊具としては一考の余地があるのではないかと思うのだが。

 

 

極秘のおとぎ話

GHQが占領下の日本で接収した莫大な財産などを基に、密かに運用されてきたとされるM資金。この類をもとにしたと思しき話が、巷間まことしやかに流布されているようである。

過日、さる知人から、実におかしな話を聞かされた。政府から委託を受けて極秘の基金を管理しているという人物に会い、概ね次のような説明を受けたそうである。この基金は、基幹産業振興を目的としており、財政法に基づき、譲与を受けることを希望する一部上場企業の代表者に対して、一定の条件を満たせば資本金の10倍の資金が無償提供される。また、その企業の代表者を基金の管理者に紹介した一般の協力者にもその資金の3パーセントが謝礼金として支払われる。そして、これはM資金詐欺などとは異なり、企業側が手数料や準備金などを要求されることは一切ない、とのこと。因みに、あのKDDIの創業者である某氏もこの資金の恩恵に与った一人だという。

このような話は、もちろん、言下に戯言と断じるのが当然だろう。だが、彼は、あろうことか、微塵も疑うことなく真に受けてしまい、一部上場企業の代表者に接触を図るべく関係者へのアプローチを始めたと言うのである。そして、後日の話では、新たに、譲与される資金が何と資本金の100倍に引き上げられ、それに伴い紹介謝礼金も同様に増額されるようになったとのことである。ここまでくれば、さすがに疑念を抱いてもいいはずだが、なおも弄ばれていることに気づくことはない。それどころか、インセンティブが強化されたことにより、モチベーションはさらに高まり、関係者へのアプローチに拍車が掛かかることとなる。しかし、方々の伝手を頼って奔走するものの、まともには取り合ってもらえず、一笑に付されるのが落ちである。そうした周囲との摩擦を重ねるなかで、おそらく徐々に確信は揺らぎ、改めて事の真偽を問わざるを得なくなったであろうことは想像に難くない。その後の経緯についてはあまり語ろうとはしなかったが、何とか目を覚ましたようである。                            

ともあれ、これで一件落着ということにはなるが、実を言うと、彼は今まで何度となく、様々なうまい話に騙されてきたのである。病的なほどにナイーブなのだ。いずれまた誰かにたぶらかされ、懲りることなく、あらぬ夢を見続けるに違いない。

スマホ ネグレクトの光景

近くの公園で運動することは、ここのところ、ほとんど日課のようなものだ。その日も、いつもと同じように体を動かし始める。そばでは、3歳か4歳くらいの男の子とその母親がベンチに座っている。男の子は、母親がスマホをいじっているため構ってもらえず、ベンチから立ち上がり、仕方なさそうに一人で遊び出す。そうしているうちに、相手をしてくれる人を求めて、この見知らぬおじさんにあれこれと話しかけてきたのである。小さな子どもと接することは決して嫌いではないが、このように母親が気づいていない状況では気が引けなくもない。ためらいつつも、体を動かし続けながら男の子の話し相手を務めたという次第である。一方、母親はずっとスマホに夢中で、我が子のことを気にかけるそぶりもない。その様子からして、おそらく普段もこのようにスマホに没入して我が子へのケアを怠っているのではと思えてならない。親のスマホ依存によるネグレクトが、子どもに深刻な影響を及ぼすということについては、ここで指摘するまでもないだろう。親としての自覚が問われる。

ほどなくルーティンを終えたところで、男の子に手を振りその場を離れたが、気になって振り返ると、男の子は、話し相手がいなくなるのを惜しんでか、こちらをじっと見ている。傍らの母親は相変わらずスマホから目を離さないままである。なんともやるせない。

八百長雑感

その立証は不能と思われていた大相撲における八百長の事実が白日のものとなって久しい。相撲協会は、それまではその存在を一貫して否定し続けてきたが、図らずも、警視庁による野球賭博の捜査の過程で、押収された力士の携帯電話から八百長の打ち合わせなどを記したメールの記録が見つかったことにより、とうとう八百長が行われたことを公に認めざるを得なかったのである。それでも、あくまで八百長といったものはそれまでにはなかったとして問題を矮小化し、トカゲの尻尾を切るような形で組織を守り、未曾有の難局を何とか乗り切ったという次第である。この一大事を契機に、大相撲は、それまで連綿と受け継がれてきたものと思われる八百長という因習を厳に戒めているようである。もっとも、この大相撲という特異な文化に対して、必要以上に競技としての潔癖性を求めるのは野暮というものであり、むしろ、虚と実が混在している方が何かと面白いのではないかと言えば不謹慎だろうか。

ところで、この八百長という言葉がどうも気になる。その語源は、明治の初期の八百屋の店主の長兵衛(あだ名は「八百長」)という人が、ある相撲の親方と碁を打つ際に、ご機嫌を取ろうと手加減をしていたことから、故意に負けることを八百長と呼ぶようになったというのが定説のようである。そこで、ひとつ疑問に思うことがある。おおよそ勝負事においては、この八百屋の長兵衛さんが八百長を行っていたその以前にも、いにしえからずっと、故意に負けるというようなことは幾度となく行われてきたはずである。したがって、八百長という言葉が生まれる前から、このような行為を指す言葉が存在してしかるべきと思うが、知る限りでは見当たらない。故意に負けるという行為は秘すべきことであるが故に、敢えて明示的に記号化することを無意識に避けてきたということなのだろうか。

ともあれ、八百長という言葉は、今では市民権を得た感があるものの、そもそもは通称であり、正式名称とは言い難い。そこで、新たに適切な言葉を設けるべきではないかと思われるかも知れない。しかし、どうだろう。この八百長という言葉は、今日では、その原義である対戦者の一方が故意に敗退行為を行うということから転じて、互いに予め勝敗を示し合わせて行われる、あるいは、暗黙の相互了解のもとに行われる勝負といった意味でも用いられる。さらには、その意味範囲を拡げ、勝負事に限らず一般に、当事者が事前に示し合わせたうえで、あるいは忖度のもとに事を運ぶということまでも包括するようである。したがって、今となっては、このように広義化し多義性を帯びた八百長という言葉に代わるものは考えにくいのではないだろうか。八百長なる事象は、まさに八百長という言葉で言い表すほかはないのかもしれない。