空中浮揚閑話

まずは、宗教学者大田俊寛氏のコメントである。
「多くの研究者は、表面的には実直なアカデミシャンとして振る舞っていますが、根っこの部分では素朴なオカルティストという人が少なくない。内田樹さんは最近、空中浮遊のヨーガ行者として有名な成瀬雅春氏との対談書を公刊しています(『身体で考える。』マキノ出版)。この中で内田さんは、成瀬氏と20年来の付き合いがあること、氏に深く心酔していることを語っています。そして両者の対話では、人間は限界を設けなければ空中に浮ける、自分はUFOを見たことがある、戦争に行っても弾に当たらない技法があるといったオカルト話が延々と綴られている。」

どうやら、内田樹氏は、オカルトと親和的であり、空中浮揚なるものについても肯定的に捉えているように窺える。この空中浮揚の類がオカルトの界隈だけで受け入れられている限りは、取り立てて異を挟むこともないと思うが、知の巨人と称され、その言説が社会に少なからず影響を及ぼし得る立場にあるようなお方が、人が空中に浮くというようなことを何らの懐疑も抱かずに軽信しているとなれば、話は別である。敢えて、この妖しき空中浮揚について愚見を述べてみたい。

件のヨーガ教師は、結跏趺坐の体勢で空中に浮いてそのままの状態を保つことができると喧伝するものの、それを公開することはできないという。当初は、公の場などで空中浮揚としてパフォーマンスを披露することを試みたことが何度かあったと聞く。この時は本当にできると思い込んでいたのかもしれないが、結果は言うまでもない。その後は、見ている人のネガティブな想念が浮揚の妨げになるといったことを理由に、人が見ている前で演じることを一切避けるようになったというわけである。

では、空中浮揚とする写真について見てみよう。まず、床から30~40cmの高さの空中で結跏趺坐の体勢をとっている一コマの写真と共に、浮揚の場面を数カット連写したものとする写真を示している。結跏趺坐の体勢で同じ高さの状態にある数カットの写真が並んでいることから、それはまさに、ある程度の時間、空中に留まっているという事実を裏付けるものであると強調するが、数回の試行を繰り返し、それぞれ同じような高さの瞬間を一コマごとに撮影した写真によって連続性を表わすことも可能である以上、同じ高さの写真が並んでいるからといって空中に留まっているということの証左にはなり得ない。それに、空中浮揚というものを連写によって明らかにしようとするならば、同じ高さの状態にある場面だけではなく、床から離れる瞬間から、再び床に戻るまでの全体の様子を連写したものを示すはずだろうと思うが、残念ながら、というよりも、当然ながら、そうしたものは示されることはない。さらには、1mを超える空中浮揚を完成したと自慢する写真がある。よく指摘されるような結跏趺坐の体勢のままジャンプしたものであれば、数10 cmならともかく、1mを超えるほどの高さに達することは考え難いことから、それは、単なるジャンプであるという批判を退けることはできるかもしれない。だが、そもそも、床から離れる場面を見せていない以上、最初の体勢が結跏趺坐であるかどうかは不明である。つまり、結跏趺坐の体勢で座った状態から床を離れたとは限らない。下肢の各関節部分が極度に柔軟で、手を使わないでも難なく脚が組めるなら、これまでのものとは異なるトリッキーな芸当によって1mを超えることも考えられる。何にせよ、その高さが1mであれ、2mであれ、そのことによって空中に浮揚しているということが裏付けられるわけはない。

それでは、映像についてはどうかというと、デジタルのビデオカメラを用いて空中浮揚の場面を撮影しようとしても、映像にいわゆる砂嵐などが生じ、何も映らなくなるという。ならば、フィルム式のカメラでは問題なく撮影ができるのであるから、アナログの8ミリフィルムカメラなどを用いて撮影すればよいはずだろうと思うが、これもまた、当然ながら、そうしたものは示されることはない。映像として見えるようになるには人類全体の意識が変わらなければならないとのことだが、これほどの詭弁もないだろう。

結局のところ、空中に浮くことができると言いながら、実際に演じて見せることも、映像によって見せることもできず、ただそれらしき写真を誇示するだけというのが実状ということになる。つまり、その実態が、ジャンプなどの芸当であればもちろんのこと、たとえ、何やらヨーガの技法によって身体が跳ね上がるというような現象であるとしても、そのまま空中に留まるものでなければ、それを空中浮揚として披露し得る手段は、静止写真のみというわけである。この限りにおいては、この空中浮揚なるものは、それらしく見える瞬間を切り取った写真で表現された虚構と見なす他はないだろう。あくまで空中に浮いてそのままの状態を保つことができると主張して、この空中浮揚を売りにし続けるなら、写真のみで済まされるはずはない。ナイーブなオカルトマニアにしか通用しないような詭弁に終始することなく、その確たる実証を示すべきだと思うのだが。

最後に、大田俊寛氏のコメントをもう一つ紹介して、話を締め括りたい。
「『私は空中に浮きます』と言うような人物は、師は師でもペテン師と見なすべきだと私は思うのだが、内田氏は成瀬氏の言説を明確に否定しない。」  

極秘のおとぎ話

GHQが占領下の日本で接収した莫大な財産などを基に、密かに運用されてきたとされるM資金。この類の変種と思しき話が、今もなお、巷間まことしやかに流布されているようである。

過日、さる知人から、実におかしな話を聞かされた。政府から委託を受けて極秘の基金を管理しているという人物に会い、概ね次のような説明を受けたそうである。この基金は、基幹産業振興を目的としており、財政法に基づき、譲与を受けることを希望する一部上場企業の代表者に対して、一定の条件を満たせば資本金の10倍の資金が無償提供される。また、その企業の代表者を基金の管理者に紹介した一般の協力者にもその資金の3パーセントが謝礼金として支払われる。そして、これはM資金詐欺などとは異なり、企業側が手数料や準備金などを要求されることは一切ない、とのこと。因みに、あのKDDIの創業者である某氏もこの資金の恩恵に与った一人だという。

このような話は、もちろん、信じるに足るものではないことは言うまでもない。言下に戯言と断じるのが当然だろう。だが、この知人は、あろうことか、微塵も疑うことなく真に受けてしまい、一部上場企業の代表者に接触を図るべく関係者へのアプローチを始めたと言うのである。そして、後日の話では、新たに、譲与される資金が何と資本金の100倍に引き上げられ、それに伴い紹介謝礼金も同様に増額されるようになったとのことである。ここまでくれば、さすがに疑念を抱いてもいいはずだが、なおも弄ばれていることに気づくことはない。それどころか、インセンティブが強化されたことにより、モチベーションはさらに高まり、関係者へのアプローチに拍車が掛かかることとなる。しかし、方々の伝手を頼って奔走するものの、まともには取り合ってもらえず、一笑に付されるのが落ちである。そうした周囲との摩擦を重ねるなかで、おそらく徐々に確信は揺らぎ、改めて事の真偽を問わざるを得なくなったであろうことは想像に難くない。その後の経緯についてはあまり語ろうとはしなかったが、何とか目を覚ましたようである。                            

ともあれ、これで一件落着としたいところだが、そうはいかない。実を言うと、この知人は、今まで何度となく繰り返し様々な悪質商法や詐欺の類に騙されてきたのである。病的なほどにナイーブなのだ。いずれまた、誰かにたぶらかされ、懲りることなく、あらぬ夢を見るに違いない。

スマホ・ネグレクト

近くの公園での運動は、ここのところ、ほぼ日課と言ってよい。その日も、いつものように身体を動かしていた。そばにあるベンチには、3~4歳くらいの男の子とその母親が座っている。男の子は、母親がスマホを見ているため構ってもらえず、仕方なさそうに一人で遊び出す。そうしているうちに、男の子は、母親の代わりを求めてか、この見知らぬおじさんにあれこれと話しかけてきたのである。とはいえ、ヘタに他人が子供と話をすれば、周囲から不審者と思われかねないご時世である。ためらいを覚えつつも、運動を続けながら、男の子の相手を務めたという次第である。一方、母親は、ずっとスマホに夢中で、わが子のことを気にかけるそぶりもない。その様子からして、おそらく、普段もこのようにスマホに没入し、子供へのケアを怠っているのではと思えてならない。親のスマホ依存によるネグレクトが、子供に深刻な影響を及ぼすということについては、ここで指摘するまでもないだろう。親としての自覚が問われる。

ほどなく、ルーティンの運動を終えたところで、男の子に手を振りその場を離れた。気になって振り返ると、男の子は、話し相手がいなくなるのを惜しんでか、こちらをじっと見ている。傍らの母親は、なおもスマホから目を離さないままである。なんとも切ない。

八百長雑感

その立証は不能と思われていた大相撲における八百長の事実が白日のものとなったのは、もう何年前のことだっただろうか。相撲協会は、それまではその存在を一貫して否定し続けてきたが、図らずも、警視庁による野球賭博の捜査の過程で、押収された力士の携帯電話から八百長の打ち合わせなどを記したメールの記録が見つかったことにより、とうとう八百長が行われたことを公に認めざるを得なかったのである。それでも、あくまで八百長といったものはそれまでにはなかったとして問題を矮小化し、トカゲの尻尾を切るような形で組織を守り、未曾有の難局を何とか乗り切ったという次第である。この一大事を契機に、大相撲は、それまで連綿と受け継がれてきたものと思われる八百長という因習を厳に戒めているようである。もっとも、この大相撲という特異な文化に対して、必要以上に競技としての潔癖性を求めるのは野暮というものであり、むしろ、虚と実が混在している方が何かと面白いのではないかと言えば不謹慎だろうか。

ところで、この八百長という言葉がどうも気になる。明治の初期に八百屋の長兵衛(通称「八百長」)という人が、ある相撲の親方と碁を打つ際に、ご機嫌を取ろうと手加減をしていたことから、故意に敗れることを八百長と呼ぶようになったというのが定説のようである。そこで、ひとつ疑問に思うことがある。この八百屋の長兵衛さんが、八百長を行っていた以前のいにしえから、おおよそ勝負事において、故意に敗れるというようなことは幾度となく行われてきたはずである。したがって、八百長という言葉が生まれる以前から、このような行為を指す名詞が存在してしかるべきと思うが、知る限りでは見当たらない。故意に敗れるという行為は秘すべきことであるが故に、敢えて明示的に記号化することを無意識に避けてきたということなのだろうか。

ともあれ、八百長という俗語、あるいは隠語だけが存在し、正規の名称がないというのは不自然であり、新たに適切な言葉を設けるべきではないかと思われるかも知れない。しかし、どうだろう。この八百長という言葉は、今日では、その原義である対戦者の一方が故意に敗退行為を行うということから転じて、互いに予め勝敗を示し合わせて行われる、あるいは、暗黙の相互了解のもとに行われる勝負といった意味でも用いられる。さらには、その意味範囲を拡げ、勝負事に限らず一般に、当事者が事前に示し合わせたうえで、あるいは忖度のもとに事を運ぶということまでも包括するようである。よって、今となっては、このように広義化し多義性を帯びた八百長という言葉に代わるものは考えにくいのではないだろうか。八百長なる事象は、まさに八百長という言葉で言い表わすほかはないのかもしれない。

寂しきパフォーマンス 

ある郊外の路上での出来事である。歩道を進んでいると、年の頃は50代と思しき女性が横たわっていることに気付く。具合が悪いに違いないと思い、声をかけてみる。意識ははっきりとしているように見えるが、何の応答もない。そこで救急車を呼ぼうか尋ねてみたところ、首を横に振って拒否の意思を示す。対応しあぐねていると、やにわに自ら上体を起こし、なんと息子の嫁への不満を一気に語り出したのだ。これには閉口するほかなく、その場から離れようとしたところ、「声をかけてくれてありがとう」とのお礼の一言という次第である。

ミュンヒハウゼン症候群と呼ばれる精神疾患がある。優しく世話をしてもらいたい、構ってもらいたいという精神的要求から病人を演ずる症状のことである。彼女のケースがこの疾患に該当するかどうかを判断する立場にはないが、その問題行動は嫁姑問題に起因するストレスから生じたものであり、家庭における疎外感を埋めるために対人接触を求めたのだろうということは容易に想像される。家族や周囲の人たちも彼女の異変には気づいているものと思われる。深刻な事態にならないうちにケアして欲しいものだ。その後は彼女を見かけることはないが、今もどこかで寂しきパフォーマンスを演じているのだろうか。

言葉の誤用

文章を書くにあたって、気をつけなければならないことのひとつに言葉の誤用という問題がある。例えば、「汚名挽回」という表現は、一般には典型的な誤用として指摘される。「汚名挽回」では「汚名」を取り返すことになり、明らかな誤用だというわけである。ところが一方では、この定説に対して異議を唱える向きもある。「汚名挽回」とは「汚名を受けた状態から元に戻ること」を意味するものであって、決して誤用には当たらないという主張である。また、「酒の肴」という表現は、「肴」それ自体が「酒のつまみ」を意味するため重複表現となり、誤用であると指摘される。ところが、「サカナ」という発話を耳にした場合に生じる「魚」との混同を防ぐため、慣用表現として「酒の肴」は容認されるべきであるという主張もあり、その可否の判断の分かれるところである。言葉の誤用に関わる問題というものは、何とも悩ましい。

ともあれ、当ブログにおいては、言葉の正しい表現に努め、なんとか誤用は避けたいものである。しかしながら、そこに過度な厳密性を求めることは、必ずしも賢明なこととは思えない。必要以上に正誤の問題に囚われてしまえば筆は滞る。どうせ取るに足らない駄文である。些細なことに拘らず、気楽に文章を書き綴ることにしたい。――― 待てよ、この「取るに足らない駄文」も、「文章を書き綴る」も、ひょっとしたら重複表現?